とらふぐって?

とらふぐの歴史

縄文時代から日本でも食されていたフグの長い歴史

縄文時代から日本でも食されていたフグ私たちの国でもフグを食べた歴史は古く、縄文時代の貝塚からふぐの歯骨が出土しています。すでにこのころから他の魚と同様に漁獲され食用に供されていたものと思われます。

しかし江戸時代にフグの内臓ごと食べた家来達が集団食中毒死した事を知った豊臣秀吉が「河豚食用禁止の令」を出しました。これが、日本最初のフグ食の取り締まりといわれています。

とらふぐが自由に食べられるようになったのはほんの100年前ぐらいから
このふぐ食の取り締まりは明治時代まで続いたのですが、この長い間のフグ食禁令を解いたのが、伊藤博文です。下関の料亭で、その日は海がシケており、魚が獲れなかったた女将が叱られるの覚悟で出したフグ料理に、甚く感動し、「こんな美味いものをどうして禁止しているのか?」という事になり、時の山口県令原保太郎に対して「違警罪即決例」のフグの条項を削除させるように働きかけたのです。
これにより、豊臣秀吉が発令して以来続いていたふぐ禁食令は解除されたのです。

ふぐをなぜ「ふく」と呼ぶ?

ふぐは昔「ふく」と呼ばれ、この名前の由来にはいくつかの説があります。

  • 「フクるる」の略で、この魚が怒るとお腹をフクらますから。
  • あるいは、「フクれる」「フクベ」(瓠/ 瓢−ひょうたん)に似てることから。
  • 「吹く」から来たそうで、胃の一部が特別な袋になっていて、この中に水を飲み込み、水を吹き出して砂中の餌をあさる。この習慣に由来する朝鮮語起源説と言うのがあり、朝鮮語でフグを「ポク」と呼び、児童語でポッキンとも呼ばれる。上代の日本語には半濁音がなかったから、「ポク」「ホク」 となりフクとなった。
山口では今でも「フク」 。「ふく」は福に通じ、ふぐは「不具」に通じるからです。
大阪では「テッポウ」。これは当たれば死ぬの意で、千葉県銚子では「トミ」。これは富くじのように当たらないの意味。
いずれしろ、その生態や形状より発したものが多く、天草ではとらふぐを「ブッキン」と呼んでいます。

ふぐの料理の歴史

縄文時代の貝塚からふぐの歯骨が出土したことからすでに縄文時代から他の魚と同様に漁獲され食用にされていたふぐ。
しかし、豊臣秀吉の時代から明治時代までふぐ食の取締りが行われていました。ふぐが一般的に食べられるようになったのは明治時代からなのです。

江戸時代に書かれたふぐ料理レシピ
しかし、1643年(江戸時代)に記された「料理物語」の中に、ふぐ調理法として「ふくとう汁」(ふぐ汁)という料理法が記されています。

「ふくとう汁は皮を剥ぎ、腸(わた)を捨て、腹にある隠し肝(肝臓)をよく取りて、血気のなきまでよく洗いきりて、先づ濁酒(どぶ)につけて置く、清酒も入れ候。さて下地は中味噌より少し薄くして煮え立ち候て魚を入、一泡にて濁酒をさし、塩加減吸い合わせいだし候なり、吸口は大蒜(にんにく)茄子(なすび)」云々

ふぐ博物館

「ふぐ中毒の絶滅」を目的に作られた博物館

ふぐの本場である大阪には「ふぐ博物館」があります。

ふぐ博物館は、ふぐ中毒絶滅のための長年にわたる研究調査標本、民芸品、美術工芸品がひし めいています。1954年、日本ふぐ研究会設立以来、ふぐ調理、医学、文学、民族学、科学、魚類学、病理組織学、食品衛生学的なふぐ一般にわたる調理研究資料に、美術工芸品や民芸品などを加え、1964年9月「ふぐ中毒の絶滅」を目的として、「ふぐ博士」北濱喜一氏により大阪岸和田市に誕生しました。

収蔵品は、各 種魚体X線写真、魚体記録写真(約2万点)、世界で唯一の完全骨格標本や、「冬眠 ブロック製法」による魚体・臓器の保存など世界的なものも多く、なかでも数々の研究に必要な50数種の内外産ふぐを厚生省および各国研究機関からの鑑別依頼標本とともに凍結保管しています。
展示資料は世界のふぐ50種類、ふぐをかたどった酒器や陶彫置物、茶道具、文房具、全国の民芸品から美術工芸品までそろっています。

現在の展示品は約2,500 点、内外からの来館者の方々に喜ばれていま す。

ふぐ博物館